お花見

はるれい

 だんベッドの上段で、しろねむい目をこすった。じょうとう人影ひとかげをぼんやりとかび上がらせている。暗くてよく見えないが、ベッドの階段に足をかけてのぞきゆきは、いたずらっ子らしく笑っているのだろう。
「あれ、何でおまえ......。」
「ねえ、お花見に行こうよ! すっごくきれいな所があるんだって。」
 真白は目覚まし時計のライトをつけた。午前二時半を回ったころだった。
「......朝になってからな。」
「それじゃだめなの。兄ちゃん、起きて。」
 もうひと入りしようとする真白をたたき起こして、雪也は、さくらを見に行こう、と言った。
 春の未明はまだ肌寒はださむかった。フリース、ニットぼう、マフラー。ぼうかんたよった。しのび足で部屋を出て、階段を下りて、玄関げんかんをそっと開いた。ドアベルがれてちぢみ上がったが、ベルは一切いっさい音を立てなかった。二人は顔を見合わせて笑った。
 田舎いなかの夜は暗い。街灯の間隔かんかくが広く、かいちゅう電灯で照らしてもなおやみい。ぽつぽつと点在てんざいする家のまどは、全て、黒く四角いあなのようだ。地上と同じほど開けている空に、完全に満ちた月が浮かんでいる。そのしゅうでは、負けじと星がまたたいている。
「どこに行くんだ?」
 てっきり桜なみが見られる小学校に行くのだと思ったが、雪也が足を向けたのは反対方向だった。そのうえ、街灯の光をけて歩こうとするので、真白は不思議に思った。
「ないしょ。でも、すっごくきれいな所。」
 雪也はふくみを持たせて笑った。
 雪也がこのように笑うとき、決して口をらないことを知っている。小ぶりの箱をかくしているので、中身をたずねたときもそうだった。熱心におづかいをためているのでようを聞いたときもそうだった。真白のたんじょうにプレゼントをわたすまで、また、新作のゲームを手に入れるまで、雪也は口を結んでいた。
 真白は目的地を知ることをあきらめて、真夜中の散歩を楽しむことにした。人が全くいない。空には星がいくつも散らされている。冷たい風が鼻をつんといためつける。けものはちわせる不安はない。興奮こうふんを覚えることもむねおどることもないが、悪くない。
 雪也は暗い方、暗い方に進みたがっているようで、明かりから遠ざかるように歩けば、自然と山に近づいていく。
 山のふもとには寺が建っている。じゅうしょくのいない寺で、そのれた外観は昔から根も葉もないオカルト話を作ってきた。うらてられた古いせきも、きょうを助長させるばかりだった。ふだんであれば、夜中でなくとも近づきたくない。真白よりも雪也のほうがそうだろう。雪也はこわがりだ。怖い話を聞いていっしょに寝てと泣きついてくるのは、いつだって雪也のほうだった。
 だが、真白はこの夜、恐怖らしい恐怖をいだかなかった。寺の屋根が見えてきても変化はなかった。自分がそうであるのだから、雪也のなかがりんとびていることもかんたんに受け入れられた。
 頭上では無数の星がかがやいている。過去かこの光を今、地球上で観測かんそくしているのは、雪也と真白のほかにいったい何人いるだろう。
 寺には七段の階段がある。階段の手前に街灯が一本立っている。
 下から懐中電灯で照らすと、寺の屋根と一本の老いぼれた梅の木が見えた。
「雪也のきらいな梅の木だ。」
 真白がつぶやくと、雪也はげんな顔でり返った。
「いつの話?」
「去年まで、あの梅のみきがおじいさんの顔に見えるって泣いていただろ。」
「もう泣かないよ。」
「......まあ、そうだろうけど。」
 雪也の行く先は真っ暗で、化け物のはらに飲み込まれてしまったような気持ちになるが、ひびの入ったアスファルトの道が雪也の数歩先まで続いていることははっきりと分かった。この道は寺が終点なはずなのに──。真白は辺りを見回す。右も左も、後ろさえ真っ暗で、頭上のちりのような星しか観測できない。
 おとなしくついていくと、古いアスファルトの道は不意に山道に変わった。雑草ざっそうもなく、ひからびた表土がさらされている。りょうわきには竹だろうか、背の高い木々がしげっている。
「どこに行くんだ?」
 えきれずに尋ねた。雪也は答えた。
「お花見だよ。」
 そういえば、風がかない。雲が動かない。獣が鳴かない。地面をむ音が立たない。人のいとなみを感じられない。
 暗く細い山道はいつまでも開けず、そのあいだ、真白は同じ質問しつもんを三度り返した。雪也の答えもその口調も全く同じだった。
 一時間にも二時間にも感じたが、けんたい感や足の痛みはなかった。息も上がっていない。あせもかいていない。闇に向かって細く息をいても、いきは白く色づかない。
 不意に目を焼かれた。前方から強い光が差した。空がしらむという前兆もなく山の背から太陽があらわれたかのような照らし方だった。数秒おいて目を開くと、まず雪也の顔が見えた。目をいっぱいに細めた、雪也がはしゃいでいるときの笑い方だ。次に無数の丸い光の玉が目に入った。それらはゆっくりと天へ上がっていき、ある高さにいたると弓なりの空にぴたりとり付いて、そのとたんに光の玉は色を変えた。赤、青、黄、むらさき──。
 光の玉を追って右へ左へさまようせんは、最後に、雪也のはいから差す最も大きな桃色ももいろの光をさぐった。
「ね? きれいでしょ?」
 広大無辺の開けた空間に雑草はない。地面をおおうのは浅く張られた透明とうめいの水で、雪也のすねをぬらしている。真白の足はぬれていない。あと半歩動かせば、真白もその水の温度を知ることができる。
 中心に一本の桜の木が立っている。幹が太く、樹高じゅこうは高い。直径は三メートルほどあって、高さは電柱をゆうしている。たくましいえだを目いっぱい広げている。天をまっすぐに指している枝もあれば、しなれている枝もある。枝先をいろどるのは無数の桃色の光だ。そくてきてんめつして、かげを桃色に色づけている。
 幻想的げんそうてきな景色に息をのんだ。雪也は満足そうに笑った。
「兄ちゃんに見せたかったんだ。桜、好きでしょ? ぼくも桜が好きなんだ。兄ちゃんと同じ理由で好きなの。去年みんなでお花見に行ったの、楽しかったよね。お父さんが飲んだくれちゃってたいへんだったけど、さくらもちを食べたり、お母さんの作ったおいなりさんを食べたりして、じいちゃんもばあちゃんもいて、すごく楽しかったよね。」
 雪也は手を差し出す。
「ねえ、もっと近くで見ようよ。あの桜の木ね、花びらが食べられるんだ。すっごくあまくておいしいの。」
 これ、プレゼント──。雪也がくれたプレゼントはペンケースだった。ファスナーがこわれて使い物にならなくなったのを知っていて、だからこそよろこぶことを確信かくしんしている、雪也が浮かべていたのはそんな表情ひょうじょうだった。
 当時と全く同じ表情の雪也に手を伸ばして、真白はその手で自分の顔を覆った。
「......ついていっちゃまずいよなあ。」
 ため息にほとんどもれた声を聞いて、雪也は目を細めて地面を見下ろした。
「そっか、ここまでなのか。」
 置いていかれたどものような声。しかし、大人びている。
 真白ははじかれたように顔を上げた。
「じゃあ、また今度にしよっか。」
 雪也は予想外に明るい声を出して、満面にみを広げて、「ばいばい。」と気さくに手を振った。
 パチンとあわがはじけた。
「──真白、だいじょう? 代わるから、少し横になってきたら?」
 目を開いた。となり叔母おばがいて、心配そうに真白の顔をのぞき込んでいる。真白は正面を見つめた。ゆめうつつのさかいたしかめた。
「......うん、大丈夫。」
 こうの中、線香が今にもきそうだ。真白は新たな線香を手に取り、ろうそくの火にかざした。

はるれい

2024年、第2回「青いスピン」作品しゅう 入選。

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