バリカンを使うのは、生まれて初めてだ。
洗面所で、マノは緊張しながら電源を入れた。
ジ─────。
すぐに手もとが振動する。
鏡に映り込んでいるのは、眉間にしわを寄せた自分。
美少女でも何でもない、のっぺりとした平凡な顔。唯一、誇れるところといえば、この黒々とした髪くらいなものだろう。いつも艶があり、小学校の友達にも、「マノの髪って、きれいだよねえ!」とよく褒められる。これも、理容師の叔父が定期的にカットしてくれているおかげだ。
「あたしばっかり......、ずるい。」
ごくりと唾を飲み込んで、バリカンを頭に近づけた。震えているのがバリカンなのか、自分なのか、もはやよく分からないくらいだ。
けど、やる。
もう、心のもやもやがあふれそうで、やらずにはいられないから。
覚悟を決め、バリカンを一気に、右耳の上に近づけた。
ブゥイーン!
芝刈り機のような音を立てて、マノの髪が宙に舞った。
「うわああああ......!」
マノのうめきにも似た叫び声が聞こえ、いったい何事かとリビングから飛んできた叔父のウッちゃんは、洗面所でしゃがみ込むマノを見つけた瞬間、思わず悲鳴を上げた。
「ぎゃあああ!」
ウッちゃんが絶叫したのも当然だ。マノの耳上辺り――髪の一部が刈り込まれている。
「なっ、何で、何で、何でえっ......!?」
動揺しすぎて声がうわずってしまったウッちゃんを見上げ、マノはせきを切ったように泣きだした。
泣きじゃくるマノの足もとには、切り落とされた黒髪が無残に散らばっていた。そばには、投げ捨てられたバリカンが転がっている。取り返しのつかないことをしてしまった――そんな絶望感が、洗面所いっぱいに満ちている。
理解が追いつかず、ウッちゃんの脳内は大混乱におちいった。
マノは小五になった今でも、そんなにおしゃれに気を遣うタイプではない。けれど、自分の髪だけは気に入っていたはずだ。毎朝、丁寧に解かしているし、「見て見て、ウッちゃん。さらさらでしょー。」と、艶やかな髪を揺らして、自慢してくることもある。
その大切な髪を、なぜバリカンで?
(学校で、誰かに「坊主にしてこい。」と言われたのだろうか。もしかして――。)
「マノおまえ、いじめにあっていたのか......!?」
ウッちゃんは心臓が潰れそうに痛くなった。額に冷や汗が吹き出てくる。
シングルマザーだったマノの母親が事故で亡くなり、母親の弟であるウッちゃんが保護者としてマノを引き取ることになって五年。これまで、愛情をかけて必死で育ててきたけれど、やっぱり自分は親代わりにはなれなかったのかもしれない。マノがこんなことになったのも、心の葛藤に気づけなかった自分のせいだ。ああ、俺のばか、ばかばかばか――!
今にも泣きだしそうなウッちゃんの顔を見て、マノは「ち、違う。」と首を横に振った。
「い、いじめられてない。だ、誰かに言われたわけでもない。自分で、決めた。」
「そっ......、そうなの?」
ウッちゃんはほっとしつつ、でもやっぱり困惑しながら、マノの震える肩に手を置いた。
「なあマノ。ウッちゃんさ、分かんないよ。だから、教えてほしい。どうしてこうなったのか、何で自分から、髪の毛を刈ろうなんて思ったんだ......?」
「ううっ......。」
マノはズボンのポケットから、小さく折りたたんだ紙を取り出し、ふるふると広げた。
大きな青い文字が、ウッちゃんの目に飛び込んでくる。
「戦争や迫害。今、世界の子どもたちに起きている現実。」
マノいわく、難民支援団体が、駅前で配っていたものらしい。
「こ、こういうのもらってもさ、いつもだったら、ちゃ、ちゃんと見ないで捨てちゃってた。でも、この子が同じ年だから、き、気になって......。」
マノが指差したちらしの真ん中辺りに、少女の写真が載っていた。そのすぐ下に、「マナール 十一歳」と書かれている。
「よ、読んだら、この子もあたしと同じで、お母さんがいないの。ミャンマーの紛争地帯から、バングラデシュまで逃げてくる途中で、お母さん、死んじゃったんだって。し、しかもさ、ここ見てよ、ウッちゃん。『マナールは、みんなから親しみを込めて"マノ"と呼ばれている。』、って......。」
彼女はバングラデシュのキャンプで暮らす、ロヒンギャ難民の少女だという。もともとは長く美しい髪だったが、すさまじい経験によって、ストレスですっかり抜け落ちてしまったそうだ。
親を失い、家も失い、髪まで失って――それでも透明な瞳は、まっすぐこちらを見つめている。笑顔はない。口もとは何かを決意するように、固く結ばれていた。
マノは、しゃくり上げながら続けた。
「な、名前が似ていても、年が同じでも、親がいなくても、全然、全然違うんだよ。だってさ、あたしは、ウッちゃんのそばで毎日ぬくぬく幸せでさ、ご飯も食べられて、学校にも行けて、漫画読んだり、ゲームしたりしてさ。そ、そんなのってさあ、ずるいよね? あたしばっかり、ずるいよね? 同じマノなのにさ、不公平すぎるよ。もうあたし、幸せな自分が、気持ち悪くなっちゃって。自分ばっかり平和なのが、もう耐えられなくて。せめて髪くらい、マナールと同じにしようと思ったの。そんなんで、平等になんてならないって、わ、分かっているけど、自分がだいじなものを一個なくしたら、マナールが幸せになれるかもって。心のもやもやも、取れるかも、って。でも、でもお......!」
マノの顔が、また大きくゆがんだ。大粒の涙が、ぼろぼろと一気にあふれ出てくる。
「バリカンで刈ることに、意味なんかなかった! だって、ほんのちょっぴり刈り込んだだけなのに、鏡を見たらあたし、うわああってすぐにパニックになっちゃったんだもん。最悪だ、もう学校に行けないって、思った。たかが髪なのに、髪の毛だけなのに、あたし、こんなことでパニックになるんだよ。マナールが、一生懸命必死で生きてるのにさ、あたしは、髪の毛だけでこんなに泣いちゃって、ばかみたい! ほんとにやだ! こんな自分がいやだ。マナールに申し訳ないよお......!」
うおおおん、と犬のように泣きながら、自分にしがみつくマノの背中を、ウッちゃんはいとおしく思いながらぎゅーっと抱きしめた。マノが、優しさからバリカンを手にしたこと。今の生活を「幸せだ」と思ってくれていること。そのどっちもがうれしくて、亡くなった姉に心の中で呼びかける。
(ああ、姉ちゃん。マノ、いい子に育っているよ。めちゃくちゃ不器用だけど、人のことを本気で思いやれる、とっても優しい子に――。)
ウッちゃんは、ぐすんと鼻をすすって、マノに語りかけた。
「いいかあ、マノ。マナールに申し訳ないから、自分の幸せをなくすなんて、それは間違っていると思うな。これからはさ、マナールが、マノと同じように幸せになれることをいっしょに探そうよ。ウッちゃんもさ、今までこういうちらし、正直、ちゃんと見ないで捨てちゃってた。遠い国の、知らない子の、かわいそうな話なんだな、ってところで終わっちゃってた。でも、マノのその刈り込み見てさ、今、はっとしたよ。俺のかわいいめいっ子と同じ年の子が、苦しい状況の中で懸命に生きているんだよな。今さ、マノがバリカンを使ってやったことには、意味がないかもしれない。けど、もしかしたらさ、そういう気持ちから、全ては始まるのかもしれないよ?」
そこまで言うと、よし......、と覚悟を決めたように、ウッちゃんは宣言した。
「次の給料が出たら、ここに寄付をしよう。たくさんは無理だけど、できるところからちょっとずつ。」
「う、ウッちゃん......!」
マノの顔が輝いた。涙と鼻水でぐしょぐしょになりながら、「あ、あたしも。」と続ける。
「このこと、学校の友達に教えたり、自分にできることを、さ、探す......!」
「よおし。そうと決まったら――。」ウッちゃんはにかっと笑って、腕まくりをした。
「まずは、その髪をどうにかしないとな。右側の耳上だけ剃っているのも変だから、左も同じようにして、上の髪で隠しちゃおう。今、流行のスタイルに変えてやる。」
ウッちゃんは床屋に勤めるプロの理容師だ。もうすでに頭の中には、マノにぴったりのヘアスタイルにお直しするイメージが浮かんでいた。
ジ─────。
バリカンの電源が再び入る。
マノは、ウッちゃんがいて、こうして自分に寄り添ってくれることが、幸せだとしみじみ思った。
いつか、マナールにも、しみじみと幸せを感じる瞬間が来ますように。
忘れないでいよう。願い続けよう。マナールが幸せになれるように。
左側の髪の毛が、バリカンで丁寧に刈られていく。心地よい振動に身を任せながら、マノはそう、祈り続けた。
松素めぐり
作家。著書に「保健室経由、かねやま本館。」シリーズ、「おはなしサイエンス 宇宙の未来 パパが宇宙へ行くなんて!」などがある。







