中学校から電車で帰ってくるときは、いちばん後ろの車両に乗る。それが、私のルールである。乗っている人が少なくて、ほかの車両より広々としているのもいいし、窓から線路が見えるのもいい。電車が九つの駅を通り過ぎると、やっと私の住んでいる駅に着く。急行電車が止まらない、小さな駅だ。
いちばん後ろのドアを降りると、そこはホームのはじっこ。周りには誰もいない。いつもそうだ。改札につながる階段が反対のはじっこにしかないから、この駅で降りる人はみんな、前の方の車両に乗っている。目の前には、小さな古いベンチが一つ、忘れられたみたいに置いてある。私はそこに座って、「よっ。」と声をかけた。
すると頭上から、「よっ。」という声がした。かいじゅうだ。
駅のホームにはかいじゅうがいる。目には見えないけど、確かにいる。そう気がついたのは一月前、ゴールデンウィークが終わったばかりのころ。いちばん後ろの車両に乗ったのもそのときが初めてで、ななみたちと顔を合わせたくなかったからだった。
ななみはクラスも合唱部も同じだから、学校では大体いっしょにいる。だけど、私とななみが仲がいいっていうよりは、ななみのグループのすみっこに私がいつもくっついている、みたいな感じだ。
その日、帰りの会で体育祭の競技決めがあった。もともとグループみんなで騎馬戦に出ようと決めていた。私も、いいね、と言ったけど、本当は不安だった。人気の競技だから、きっとくじ引きになる。それに、騎馬は四人で一つ。私たちのグループは五人。はんぱな人数だ。
いやな予感はびたっと当たった。担任が「騎馬戦」と言った瞬間、教室中で手が挙がった。黒板に二十個も名前を書き、担任は言った。
「いちおうもう一回聞くから、本当に騎馬戦をやりたい人だけ、もう一回手を挙げてもらいます。綱引きも大玉もまだ空いてるし、一人、二競技まで出られるからね。よく考えてくださーい。それでも決まらなかったら、くじ引きします。」
それでもやっぱり、たくさんの手が挙がった。私も、挙げようかなあ、と思ったとたん、右腕がぐっしょりぬれたみたいに重たくなって、体が固まった。担任が私を指差して、黒板から私の名前を消した。斜め前の席のななみが、ちらっと私の方を振り返った。けれど、すぐにまた黒板の方を向いてしまった。
その日の帰り道、学校の最寄り駅のホームを、私はずんずん歩いた。
結局、グループの子たちはみんな、くじ引きに当たった。ななみが後で「ごめんね。」と言いに来たけど、私は「全然平気。」と言った。本当の気持ちだった。自分だけくじに当たるのもいやだし、みんな当たっても騎馬は四人組だ。そこで余るのもいやだった。だから本当に、あそこで手を挙げなくてよかったんだ、と、そのときは思ったのだ。
だけど駅で一人になると、何だか泣けてきた。同時に、誰かに見られたら、と想像しただけで、はずかしくてたまらなくなった。わざと強く目をこすりながら歩き続けたら、ホームのはじっこに着いてしまった。目をこすったまま電車に乗って、住んでいる駅のはじっこに降りても、やっぱり目をこすっていた。
そのとき、ごーん、と、頭が何かにぶつかった。けれど顔を上げても、そこには何にもない。おそるおそる、前に向かって手をのばすと、指先が何かにぶつかった。かたい手ざわりだった。
何かがある。
今度は、手のひらでさわってみる。ざらざらしていて、うっすらとふくれている。思わず、周りを見回す。誰もいない。もう一度さわる。やっぱり、ある。何にもないようにしか見えない所に、なぞの物体がある。
初めはおっかなびっくりだったけれど、だんだん正体が気になる気持ちのほうが大きくなった。あちこちぺたぺたさわってみると、物体は、どうやらかなり大きいみたいだった。私の身長どころか、めいっぱい手を空に向かってのばしても、まだてっぺんにさわれない。ところどころでこぼこしていて、私の正面辺りは、大きな卵みたいにふくらんでいる......。
「ふふふん。」と声がしたのは、そのときだった。
「こしょぐったーい。」
声は頭の上、ずっと高い所から聞こえた。思わず、両手を引っこめる。直感で分かる。今、この、なぞの物体がしゃべったのだ。とっさに距離を取ると、今度は「待って、待って。」と声がする。女の子みたいな声だった。
「しっぽをね、はがしていってくれない?」
「何? どういうこと?」と、私がついたずね返すと、物体はまた「ふふん。」と言った。笑ったみたいだった。
「あのね、このあいだ、脱皮をしたのね。そしたらしっぽだけ、うまくできなくて、くっついちゃったのね。代わりに、はがしてくれる?」
言われるまま、下へ、下へと手のひらで探っていくと、なるほどしっぽのようなものが、長くのびている。そして確かに、先っぽのところに、セロファンみたいに軽い手ざわりの、はがれかかったところがある。ぺりぺりとはがしてやったら、しっぽの持ち主はやっぱりふふん、ふふふん、と笑った。
はがし終わると、私はしっぽを頼りにもとの位置に戻った。それから、たずねた。
「もしかして、かいじゅう?」
「どうして?」
「しっぽはヘビみたいだけど、二本足で立ってるでしょ。恐竜みたいだけど、恐竜は、脱皮しない。大体、とうめいで、言葉をしゃべるし、おばけみたい。かいじゅうしか、ありえない。」
「大当たり!」と、かいじゅうは答えた。
次の日も、その次の日も、かいじゅうはそこにいた。私がベンチに座って話しかけると、いつだって「ふふ、ふふ。」と笑った。何だか、喜んでいるみたいだった。
それから、いちばん後ろの車両に乗って帰ってきて、しばらくかいじゅうとおしゃべりするのが、すっかり普通になった。私はいろんなことをかいじゅうに話す。怒られたこと。体育祭の練習のこと。おもしろい夢を見たこと。ななみたちのこと。何を話しても、かいじゅうは興味があるんだかないんだか、やっぱり「んふふ。」とか言うだけだ。だけどなぜか、これまで誰にも話さなかったようなことも、かいじゅうになら話す気になった。
私が空に向かって手をのばすと、かいじゅうも顔を下にかたむけて、手が届くようにしてくれた。ワニみたいに大きな口を開けて、ぎざぎざの歯をさわらせてくれた。
「あした、体育祭だよ。あーあ。」
そう言うと、右のわき腹がつっつかれた。爪でやったのかな、それともしっぽかな、と思っていると、かいじゅうが「そうやねえ。」と言った。
私はかいじゅうがいそうな方をちらっと見た。右を見てみて、それから上を見上げてみた。やっぱり、何も見えない。うろこ雲の青空が見えるだけだ。
「あのさ、体育祭、かいじゅうも来たらいいじゃん。」
そう言ってみて、しばらく返事を待ったけど、かいじゅうはめずらしくだまっていた。だんだん気まずくなってきて、あわてて付け足す。
「かいじゅうだったらさ、いても、誰にもばれないじゃん。こっそりついてきてさ、こっそり、近くにいてよ。改札は通れないかもしれないけど......そうだ! 線路をたどって、ついてきたら?」
すると、ベンチの後ろから背中がぐっと押されて、かいじゅうの体がぴったりくっついているのが分かった。
「しょうがないなあ。」とかいじゅうは言った。
「いいよ。そのかわり、約束してね。一人のときしか、かいじゅうとはしゃべれない。一人のときしか、かいじゅうにはさわれない。それでもいい?」
「いいよ、いいよ。」と私は答えた。
「それでいい。見えないし、しゃべれないし、さわれなくても、かいじゅうがそばにいてくれたら、それでいい!」
体育祭は、雲のぷかぷか浮かぶ青空だった。校庭の真ん中では、大玉転がしが始まっている。赤い玉と白い玉が、抜いたり、抜かれたりするたびに、観客席からうわーっと声が上がった。私もみんなといっしょに、白いはち巻きを頭上で回しながら、大きな声で応援する。がんばれ、白組、がんばれ。
振り返ると、校庭の裏門が見える。かいじゅうがあそこから入ってくるかもしれないと思った。ななみたちはふだんと変わらない様子で、話しかけられたら、私も笑った。だけどときどき、今すぐ観客席を外れて、裏門の所に立っているかいじゅうを探し出し、抱きしめたい気持ちになった。
そのたび、代わりに応援の声を張り上げて、ぐっとこらえた。きっと、かいじゅうはいる。そこにいるんだ。電車にも負けない速さで、線路を走って来てくれたんだ。そう思ったら、みっともないところは見せられない。
見ててね、かいじゅう。
騎馬戦のときも、私は大声で応援し続けた。騎馬戦は体育祭の花形だから、これが終わったら後はクラス対抗リレーを残すだけ、という最後の最後で行われる。そのころには、喉も、はち巻きを振る腕も、じんじん痛くなってきていた。それでも、ななみたちの騎馬が校庭をのしのしと進み、三本、四本と赤組のはち巻きを勝ち取るたび、私も一生けん命になった。がんばれ、がんばれ、みんながんばれ、私も、がんばれ。さけんでいるうちに、おなかの辺りがかーっと熱くなって、涙がにじんだ。
だけど、白組は騎馬戦に勝てなかった。点差ははち巻き三本分で、ぎりぎりの負けだった。しばらくして、ななみたち騎馬戦チームが観客席に戻ってくると、みんな拍手で出むかえた。私もめいっぱい拍手をしながら、やっぱりちょっと振り返った。
そこにはもう、何にもいなかった。砂利のしかれた地面が、平べったくのびている。その向こうで、裏門のイチョウの葉っぱが、空にゆれていた。
駅のホームのはじっこに帰ってくると、やっぱりかいじゅうはいた。「帰ってきたの?」とたずねてみると、「まあねん。」とあいまいな返事が返ってきた。
「体育祭、来るって言ってくれて、ありがとう。」
「平気、平気。」
「おもしろかった?」
「おもしろかったあ。」
心の底からしみじみとした感じでそう言うのだ。
「ほんとかなあ。」
いつもより遅い時間だった。雲にはもう、夕焼け色が差し始めている。私はそれをじっと見つめ、次に、自分の手をじっと見つめた。それから一回つばを飲みこみ、かいじゅうに言った。
「かいじゅう。ほんとのこと言ってよ。体育祭に来てくれたの、うそでしょ。」
右どなりに座っていたかいじゅうの体が、ゆらん、ゆらんと左右にゆれたのが、右肩の感触で分かった。
「うそじゃなーいもん。」
歌うみたいにかいじゅうは言った。
「うそだよ。だってかいじゅうはとうめいだから、来ても、来なくても、私には分かんないと思って、来たことにしてくれたんでしょ。それがばれないように、あんな約束したんでしょ......だけど、かいじゅうあのね、校庭って、砂がしいてあるんだよ。いくらとうめいでも、ほんとに来てくれてたら、足あとが付いたはずだよ。」
かいじゅうは少しの間、左右にゆれるのもやめて、しんとしていた。だけどしばらくするとまた、「うそじゃなーいもん。」と歌った。
「うそだよ。そばにいるって言ったじゃん。だから私、がんばったんじゃん、さみしいときも。」
「だったら、うそじゃないじゃない。」
「どういうこと?」
「かいじゅうはね。」
かいじゅうはこらえきれないというみたいに、ふふ、ふふ、と笑い声をこぼした。
「そばにいるのがうまいんだ。おしゃべりしたり、さわったりできなくたって、そばにいられる。かいじゅうのやり方で。」
そう言いながらまた、からかうみたいに私の体を、つんつんつついた。かいじゅうの言葉の意味を、私はしばらく考えた。それから、小さな声でたずねた。
「かいじゅうは、さみしくなったりしない?」
「どうして?」
「だって、とうめいだし、そばにいたって、誰にも見えない。そこにいるのに、気づいてもらえないって、さみしくないの?」
学校にいるときの私みたいに、と私は心の中で思った。
「さみしいよお。」
そう答えたかいじゅうの声は、ふだんと全く変わらない、のんびりした調子だった。
「だけど、かいじゅうはみんな、さみしいのが好き。だから、一人のときしか、かいじゅうとはしゃべれない。一人のときしか、かいじゅうにはさわれない。」
私はだんだん、頭の中がこんがらがってきた。
「かいじゅうが、ほかにもいるってこと?」
「いる、いる、たくさんいる。ほら、そこにいる。」
「えっ、ここにもいるの? そこって、そこ?」
私が目の前の線路を指差すと、かいじゅうは「もっと上、もっと上。」と言った。言われるまま、指差した手をゆっくりと上へ、上へと持ち上げていくけれど、かいじゅうはまだ「もっと上、もっと上。」と言い続ける。やっと、「そう、そう、そこらへん。」とかいじゅうが言ったときには、私の指はマンションを通り過ぎ、ごみ処理場の大きなえんとつを通り過ぎて、雲の一つを指差していた。
私はそこでぴたっと手を止め、今自分の手が指差している、遠くの空を見つめた。となりにいるかいじゅうも、同じように遠くを見つめているのが分かった。
夕方の空はいよいよ、発熱するような夕焼け色に染まり始めている。真っ赤な雲が、風にちぎれながら、私たちの前をゆっくりと流れていった。その雲に頭が届くぐらいの大きな大きなかいじゅうが、同じようにゆっくりと、その辺りを歩いているのかもしれなかった。
「かいじゅう。私も、さみしいのが好きになれるかな。」
私がつぶやくと、かいじゅうは答えた。
「もう、なってる。」
そしてまた、ふふ、ふふ、と笑った。
向坂くじら
詩人、作家。著書に「踊れ、愛より痛いほうへ」「ことぱの観察」、詩集「アイムホーム」などがある。








