塾の夏期講習の帰り道、神社の裏からハーモニカの音が聞こえた。陽葵はどきりとして足を止める。
辺りはもう暗くなりかけていたが神社裏の林ではまだセミがワンワン鳴いている。その声に混じって確かにハーモニカの音が聞こえたのだ。
幽霊......? まさかね、と思ったが背筋がひやりとする。平和学習で町のお年寄りから聞いた話がよみがえる。
「あと一週間で戦争が終わるというときですよ。日本軍の故障機が基地に戻る途中、神社の裏に落っこちてね、虫採りをしてた子が三人巻きこまれたの。」
亡くなった三人の中の一人は、話してくれたおばあさんの兄だった。おばあさんはそのときまだ四つ。お兄さんは十三歳。陽葵と同い年だ。
「優しくて、ハーモニカの上手な兄だった。」とおばあさんは言っていた。
幽霊......のはずはない。でも誰がハーモニカなんか吹いているんだろうと気になって、陽葵は神社裏の林をのぞきに行ってみた。
林の脇の道路の街灯が、木陰のベンチに光を投げかけている。そのベンチに座ってハーモニカを吹く人影が見えた。ハーモニカのメロディがさっきよりずっとはっきりと聞こえる。どうやらオールディーズの曲のようだ。それに、どうやらあまり上手ではないらしい。しょっちゅう、引っかかったり、つっかえたりしている。
近づいていくと足音に気づいたのか、ハーモニカの音がやんだ。
街灯の光の中、顔を上げたその子を見たとたん、陽葵は「あっ。」と声を上げた。
ハーモニカを吹いていたのは森樹。同じクラスの男子だった。陽葵と樹は小学校は別々だったが、小さい頃同じ幼稚園に通っていた。
「相原陽葵、こんなとこで何してんの?」と、フルネームで名前を呼んで樹が質問した。
「塾の帰り。樹くん、じゃなくて森くんこそ何でここでハーモニカなんか吹いてんの?」
陽葵がたずねると樹は手の中のハーモニカと陽葵の顔を見比べて、ちょっと黙りこんだ。
「戦争が終わるちょっと前、ここで子どもが死んだの知ってる?」と、やがて樹が聞いた。
「知ってるよ。」と陽葵はうなずく。
「日本軍の飛行機が落っこちてきて、虫採りしてた子が三人巻きこまれたんでしょ? 平和学習のとき、亡くなった男の子の妹のおばあさんが話してくれた。」
樹がまた口を開く。
「死んだのは三人だけど、虫採りしてたのは四人で、たまたま離れたとこにいて助かったのが、おれのひいじいちゃんだ。ひいじいちゃんは去年の秋九十四歳で死んじゃったけど、それまで毎年、八月になると、ここにハーモニカ吹きに来てたんだ。......で、亡くなる前にこのハーモニカ、おれにくれたんだよ。」
「ハーモニカが上手だったの? ひいおじいちゃん。」
形見のハーモニカを見つめて樹がうなずく。
「うまかったよ。イツキのほうがもっとうまかったって言ってたけど。」
「え? イツキって樹くんのこと?」
「ちがうんだな。死んじゃった友達の名字だよ。五木勇一っていうんだって。別に狙ったわけじゃないだろうけど、ひ孫のおれは樹。」
「そっか。何か、責任ていうかつながり、感じちゃうね。だから、ひいおじいちゃんの跡を継ごうって......。やっぱ、りっぱだわ。」
ハーモニカは下手だけど、という言葉を飲みこんで陽葵はそう言った。
「ここでハーモニカ吹いてるのには、ほかにも理由があるんだけどな。」と樹が言う。
「家で吹いてると、『下手くそ。』って、めちゃ迷惑がられるし、それに、もう一つ。この時間ここにいると、いい物が見れるから。」
「いい物?」と、思わず陽葵は聞き返した。
「セミの羽化。」
急に勢いこんで樹が答える。
「メタモルフォーゼだよ。地面の下から出てきた幼虫が殻を破って大変身するとこって見たことある? すっごくきれいなんだ。」
樹の目が輝いているのを見て、陽葵はちょっと笑ってしまった。
「やっぱ、虫、好きなんだね。」
「うん......まあ......。」
笑われたと思ったのか気まずそうに目をそらす樹に陽葵は問いかけた。
「あのさ、幼稚園の年少組のとき、あたしにプレゼントくれたの覚えてる?」
樹はぎくりとしたようだった。
「何だっけ?」と不安そうに首をかしげる。
「砂の詰まったビニール袋。『ひまりちゃんにあげる。』って言うから『これ、何?』って聞いたら、『アリ。』だって。『アリつかまえたから、あげる。』って。生まれて初めて男子からもらったプレゼントがアリだよ、袋詰めの。あと、セミの抜け殻で作ったネックレスとか、緑色のカメムシとかもくれたよね。」
さらに続けようとする陽葵の言葉を「あっ!」と叫んで樹が遮った。
「何? どした?」
ぎょっとする陽葵に、樹が目の前のクヌギの木を指差してみせる。
「ほら、そこ。セミの幼虫。」
「えっ? どこ、どこ?」
ベンチから立ち上がった樹が歩み寄るクヌギの下に陽葵も近づいていった。
「しいっ。」と合図する樹の横からそっとのぞき込むと、ごつごつした幹の途中でじっとしている幼虫が見えた。
「地面から出てきて、ここまで上ったんだ。」と、ひそひそ声で樹が言った。
「もうじきメタモルフォーゼが始まるから驚かさないように静かに。邪魔が入ると途中で羽化するのやめて、死んじゃうから。」
「分かった。」と陽葵も、とびきりのひそひそ声で応じる。成り行きでセミの羽化を見学することになってしまった。セミの抜け殻のネックレスをくれた男子と二人で。
樹の言ったとおり、幼虫は間もなく変身を開始した。茶色い幼虫の背中が割れて、そこからうす緑がかった白い妖精みたいなセミの成虫が姿を現したとき、陽葵は思わず「きれい。」とささやいた。熱心に羽化を見守っていた樹が、かがめていた腰を伸ばし「だろ?」と得意そうに笑う。幼稚園のときクラスでいちばん小さかった樹の身長がとっくに自分を追い越していることに気づいて陽葵はどきっとした。
「メタモルフォーゼだ。」
陽葵のつぶやきに「何?」と樹が首をかしげる。いつのまにか大変身をとげていた幼なじみから「何でもない。」と目をそらし、陽葵は質問する。
「さっき吹いてたの、何て曲?」
「スタンド・バイ・ミー。」と樹が答える。
「あ、知ってる。吹いてみてよ。」と言うと、「だめ。まだ練習中。」という返事が返ってきた。「それにセミの羽化の邪魔になるし。」
セミに気をつかう樹のことがおかしくて、陽葵は笑いたくなった。林にたまる熱気をかき混ぜて夕暮れの風が渡る。林のこずえが騒ぐ。
「樹くんのひいおじいちゃんてさ、死んじゃった友達のこと思い出すために毎年ハーモニカ吹いてたのかな?」と陽葵が言うと、
「『おまえたちのこと忘れないぞ。』っていう意味なんだってさ、ハーモニカ吹くのは。」と樹が答えを返した。
「そっか。」と陽葵はうなずく。「だから今度は樹くんがハーモニカ吹くんだね。その子たちのこと忘れないように。」
しわくちゃの白い羽を伸ばそうとしているセミを見つめながら陽葵は思っていた。
私も覚えておこう、と。
死んだ子たちのことを。戦争のことを。そして、今日、夏の日のメタモルフォーゼのことを。
いつのまにかセミの声はやんでいた。
富安陽子
児童文学作家。著書に「やまんば山のモッコたち」「盆まねき」「さくらの谷」などがある。








