見みえないものを見みえるようにする

石いし﨑ざき和かず宏ひろ

 「芸げい術じゅつの本ほん質しつは、見みえるものをそのまま再さい現げんするのではなく、見みえるようにすることにある。」*
 これは、画が家かのパウル・クレーが残のこした有ゆう名めいな言こと葉ばです。みなさんは、ふだんどのようにものを見みていますか。例たとえば、毎まい日にち通かよっている通つう学がく路ろを思おもい浮うかべてみてください。いつも見みている景色けしきなので、何なに気げなく通とおり過すぎているかもしれません。でも、少すこし立たち止どまってよく見みてみるとどうでしょう。朝あさの日ひ差ざしで光ひかる葉はっぱの色いろ、風かぜにゆれる木きの枝えだ、季き節せつによって変かわる空そらの様よう子すなど、今いままで気きづかなかった発はっ見けんがあるかもしれません。同おなじ景色けしきを見みていても、「見みよう。」と意い識しきすると、新あたらしいものが見みえてくるのです。
 図ず画が工こう作さくや美び術じゅつの授じゅ業ぎょうで作さく品ひんを鑑かん賞しょうするとき、「何なにをどのように見みればよいのか分わからない。」と感かんじることがあるかもしれません。でも、それはとても自し然ぜんなことです。最さい初しょは何なにも思おもいつかなくても、少すこし時じ間かんをかけて見みていると、「この形かたちは何なにかに似にている。」「この風ふう景けいはどこかで見みたように思おもう。」「どうして作さく者しゃはこんな題だい名めいを付つけたのだろう。」「どうしてこの作さく品ひんが気きになるのだろう。」といった考かんがえが少すこしずつ浮うかんできます。さらに、「この作さく品ひんは何なにを伝つたえたいのだろう。」「作さく者しゃはどんな気き持もちで創つくったのだろう。」「もし自じ分ぶんだったらどう表ひょう現げんするだろう。」「もし自じ分ぶんの部屋へやに飾かざるならどれを選えらぶだろう。」と考かんがえ始はじめると、鑑かん賞しょうは作さく品ひんをただ眺ながめるだけの活かつ動どうではなくなります。自じ分ぶんなりの意い味みや考かんがえを創つくりだす、創そう造ぞう的てきな自じ己こ表ひょう現げん活かつ動どうへと変かわっていくのです。
 このように想そう像ぞう力りょくや創そう造ぞう力りょくを働はたらかせて作さく品ひんについて考かんがえることは、作さく品ひんと対たい話わすることでもあり、自じ分ぶん自じ身しんと対たい話わすることでもあります。同おなじ作さく品ひんを見みても、人ひとによって感かんじ方かたや考かんがえ方かたは違ちがいます。ある人ひとは色いろの美うつくしさに心こころを動うごかされるかもしれません。別べつの人ひとは、作さく品ひんに描えがかれた出で来き事ごとや歴れき史しに興きょう味みを持もつかもしれません。どちらが正ただしいというわけではありません。それぞれの見み方かたには、その人ひとの経けい験けんや考かんがえ方かたが表あらわれています。だからこそ、自じ分ぶんの感かんじたことを言こと葉ばにすることは、とても大たい切せつな自じ己こ表ひょう現げんなのです。
 また、友とも達だちと感かん想そうを話はなし合あうと、自じ分ぶんでは気きづかなかった見み方かたに出で会あうことがあります。「そんな見み方かたがあったんだ!」と驚おどろくこともあるでしょう。ほかの人ひとの考かんがえを知しることは、自じ分ぶんの世せ界かいを広ひろげる大たい切せつなきっかけになります。
 しかし、作さく品ひんを見みながら頭あたまの中なかで考かんがえていることは、目めには見みえません。そこで私わたしは、その「考かんがえるプロセス」を見みえるようにするために、生せい成せいAIを使つかったアプリを開かい発はつしています。このアプリでは、作さく品ひんを見みながら考かんがえたことや感かんじたことが分ぶん析せきされ、「関かん心しん度どマップ」として表ひょう示じされます。ちょうど自じ動どう車しゃのナビゲーションが現げん在ざい地ちを示しめしてくれるように、「自じ分ぶんはこんなところに注ちゅう目もくしていたんだ。」「いつも同おなじ見み方かたをしていたんだな。」「今こん度どは別べつの見み方かたも試ためしてみよう。」と気きづくことができます。
 このようなふり返かえりは、次つぎに作さく品ひんを見みるときの新あたらしいヒントになります。もちろん、AIが答こたえを教おしえてくれるわけではありません。大たい切せつなのは、自じ分ぶん自じ身しんで考かんがえることです。
 美び術じゅつの鑑かん賞しょうでは、「自じ分ぶん自じ身しんの見み方かた」を育そだてていくことが大たい切せつです。すぐに答こたえを見みつける必ひつ要ようはありません。むしろ、分わからないまま考かんがえ続つづけることが重じゅう要ようです。研けん究きゅうによると、じっくり時じ間かんをかけて作さく品ひんを見みることで、より深ふかく理り解かいできることが分わかっています。ところが、美び術じゅつ館かんで一ひとつの作さく品ひんを見みる時じ間かんは平へい均きんすると三さん十じゅう秒びょうにも満みたないという調ちょう査さがあります。少すこしもったいない気きがしませんか。しばらく考かんがえていると、あるとき突とつ然ぜん、「もしかすると、こういう意い味みかもしれない。」という新あたらしい発はっ見けんが生うまれることがあります。その小ちいさな発はっ見けんの積つみ重かさねが、みなさんの考かんがえる力ちからを育そだてていくのです。そして、そのプロセスで感かんじる戸と惑まどいや葛かっ藤とうも、大たい切せつな学まなびの一いち部ぶになると思おもいます。
 見みえないものを見みえるようにする力ちから。それは特とく別べつな人ひとだけが持もっている才さい能のうではありません。作さく品ひんをよく見みて、自じ分ぶんの考かんがえを言こと葉ばにし、人ひとの話はなしに耳みみを傾かたむける。その積つみ重かさねによって、誰だれでも少すこしずつ育そだてていくことができる力ちからです。美び術じゅつ作さく品ひんを見みることは、作さく品ひんを知しるだけではありません。それは、自じ分ぶん自じ身しんを知しることでもあります。そして、自じ分ぶんとは違ちがう考かんがえ方かたや感かんじ方かたに出で会あうことで、世せ界かいをより広ひろく、より豊ゆたかに見みることができるようになります。
 見みえないものを見みようとして、自じ分ぶんなりに考かんがえ続つづけることは、新あたらしい自じ分ぶんと新あたらしい意い味みを発はっ見けんするための大たい切せつな一いっ歩ぽとなります。その一いっ歩ぽ一いっ歩ぽが、未み来らいを豊ゆたかに生いきていくための大たい切せつな力ちからになるのではないでしょうか。

引いん用よう文ぶん献けん
*「造ぞう形けい思し考こう〔上じょう〕」パウル・クレー・著ちょ/土ひじ方かた定てい一いちほか・訳やく、新しん潮ちょう社しゃ、一九七三年ねん、一二二ページ(現げん在ざいは筑ちく摩ま書しょ房ぼうから、ちくま学がく芸げい文ぶん庫ことして刊かん行こうされている。)

spin09_25-27_エッセー_b.png

絵え・yasuo-range

石いし﨑ざき和かず宏ひろ

筑波つくば大だい学がく芸げい術じゅつ系けい教きょう授じゅ。美び術じゅつの見み方かたや考かんがえ方かたを研けん究きゅうし、鑑かん賞しょう支し援えんツールを開かい発はつしている。

読み物一覧へ戻る

page top