アクスタ写しゃ真しんから考かんがえる

村むら上かみ由ゆ鶴づ

 みなさんは「アクスタ」を持もっていますか?
 アクスタとは、「アクリルスタンド」の略りゃく称しょうです。透とう明めいなアクリル板ばんにアニメのキャラクターやアイドルの写しゃ真しんを印いん刷さつするなどしたグッズです。近きん年ねんは、家いえで専せん用ようの台だい座ざに差さしてフィギュアのように立たてて飾かざったり、そのアクスタをライブ会かい場じょうや飲いん食しょく店てんや旅たび先さきなど、出でかける先さき々ざきに持もっていったりして写しゃ真しんを撮とることが、「推おし活かつ」の一ひとつとして定てい着ちゃくしています。
 私わたしは写しゃ真しんについて研けん究きゅうしているので、特とくに、「アクスタの写しゃ真しんを撮とる」という文ぶん化かにとても興きょう味みがあります。
 というのも、アクスタの写しゃ真しんを撮とるというのはよくよく考かんがえると、ちょっと不ふ思し議ぎな現げん象しょうです。アニメや漫まん画がなどのキャラクターは例れい外がいとして、基き本ほん的てきにアクスタの写しゃ真しんを撮とるというのは、「写しゃ真しんの写しゃ真しんを撮とる行こう為い」だからです。最さい近きんでは、おしゃれなカフェや、景色けしきのよい場ば所しょ、観かん光こう地ちなどでは、アクスタを持もって写しゃ真しんを撮とっている人ひとをよく見みます。しかし、同どう時じに現げん代だいは、スマホやタブレット、パソコンで簡かん単たんに推おしと自じ分ぶんがいっしょに過すごしているような合ごう成せい写しゃ真しんも作つくれるようになっているし、AIを使つかえば、推おしと自じ分ぶんがおしゃべりをしたりダンスをしたりする動どう画がだって作つくることができてしまいます。つまり、もし推おしの写しゃ真しん入いりの写しゃ真しんを作つくりたいのであれば、わざわざ実じつ物ぶつの写しゃ真しんを持もち運はこぶ必ひつ要ようはない時じ代だいになっているのです。ですから、写しゃ真しんを「モノ」として形かたちにするために、アクリルに印いん刷さつするなどして、いろいろな所ところに持もっていけるようにしてあるアクスタは、実じつは技ぎ術じゅつの進しん歩ぽには逆ぎゃっ行こうしたアイテムです。画が像ぞうの加か工こうも、合ごう成せいも、そして生せい成せいも簡かん単たんな現げん代だいに、なぜ、アクスタを持もち運はこぶという面めん倒どうをわざわざ行おこなうのでしょうか?
 その理り由ゆうは、このアクスタ推おし活かつにおいて「写しゃ真しん」がどのような意い味みを持もっているかに関かかわっています。
 おそらく、アクスタといっしょにお出でかけし、目もく的てき地ちでアクスタの写しゃ真しんを撮とっている人ひとは、その写しゃ真しんをインスタグラムなどのSNSなどに投とう稿こうするはずです。こうした投とう稿こうは、単たんに「パンケーキ屋やでアクスタの写しゃ真しんを撮とった」以い外がいにも、さまざまなメッセージを持もちます。
 例たとえば、そのパンケーキ屋やがとても遠とおい場ば所しょにあるお店みせならば、そのアクスタ写しゃ真しんは、目もく的てき地ちで写しゃ真しんを撮とるまでの長ながい距きょ離りと時じ間かんをアクスタとともに過すごしたことを示しめします。ほかにも、学がっ校こうや職しょく場ば、旅たび先さき、ラーメン屋や、はやりのスイーツ屋やさんなど、さまざまな所ところで撮さつ影えいしたアクスタの写しゃ真しんをSNSに投とう稿こうしていたとしたら、いつでもどこでもアクスタといっしょにいることが伝つたわってきます。
 つまりこれは、実じつ物ぶつの写しゃ真しんであるアクスタを推おし本ほん人にんに見み立たてて、その推おしと「いつでも・どこでもいっしょ」であることのアピールなのです。写しゃ真しんには撮さつ影えいされていない時じ間かんも推おしを肌はだ身みはなさず持もち歩あるき、いっしょに過すごしていること。このように、「写しゃ真しんを撮とった写しゃ真しん」は、推おしへの愛あいの重おもさ・深ふかさを示しめすものとして使つかわれているのです。
 加くわえて興きょう味み深ぶかいのは、カメラを通とおしてみたときに、手て前まえにアクスタ、奥おくに自じ分ぶんを配はい置ちすることで、まるで等とう身しん大だいの推おしと並ならんで写しゃ真しんを撮とっているかのように見みせるトリックアートのようなアクスタ写しゃ真しん。持じ参さんしたアクスタはもちろん推おしの分ぶん身しんにすぎません。もちろん本ほん人にんではありませんが、お出でかけ先さきのフォトスポットで「(自じ分ぶんとアクスタの)二人ふたり」の写しゃ真しんを撮とるこのトリックアート的てきアクスタ写しゃ真しんからは、アクスタを持もち歩あるくことが一いっ種しゅの「デート」のようなものになっていることも読よみ取とれます。
 このアクスタの流りゅう行こうは、推おしの加か工こうも、合ごう成せいも、生せい成せいもできる今いま、むしろ改あらためて「写しゃ真しんを持もち運はこぶ」ことの重じゅう要よう性せいが高たかまっていることを示しめしています。
 実じつは、写しゃ真しんの歴れき史しを振ふり返かえると、デジタル写しゃ真しんよりも、フィルム写しゃ真しんよりも、もっと前まえ、写しゃ真しんが発はつ明めいされて間まもない一八五〇年ねん代だい頃ごろ、名めい刺しサイズくらいの硬かたい厚あつ紙がみのカードに紙かみの写しゃ真しんを貼はったもの(カルト・ド・ヴィジット)を持もち運はこび、交こう換かんしたり集あつめたりすることが流りゅう行こうしていました。人ひと々びとは家か族ぞくの写しゃ真しんを持もち歩あるいたり、当とう時じの有ゆう名めい人じんや王おう室しつ関かん係けい者しゃなどの写しゃ真しんを集あつめたりしたのです。このように、「お気きに入いりの写しゃ真しんを持もち歩あるく」という人にん間げんの行こう動どうは、写しゃ真しんが生うまれたばかりの頃ころからずっと変かわっていません。
 ただし、昔むかしの写しゃ真しんとアクスタが決けっ定てい的てきにちがうのは、アクスタは自じ分ぶんの手てで持もって、背はい景けいといっしょに写しゃ真しんを撮とるために作つくられているという点てんなのです。
 このことから、私わたしたちは「今いまがどんな時じ代だいなのか」をのぞき見みることができます。
 スマホ一ひとつでどんな画が像ぞうも作つくれるデジタル時じ代だいだからこそ、私わたしたちは逆ぎゃくに、長ながい時じ間かんをともに過すごしたからこそ撮さつ影えいできる写しゃ真しんを求もとめているのかもしれません。あるいは、合ごう成せい写しゃ真しんや加か工こう写しゃ真しんなど、偽にせ物ものの写しゃ真しんや動どう画がばかりの今いまこそ、自じ分ぶんの気き持もちを目めに見みえる形かたちにできるものを求もとめているのではないでしょうか。
 このように写しゃ真しんの使つかわれ方かたをじっくり見みていくと、その時じ代だいに生いきる人ひとたちの気き分ぶんや願ねがい、社しゃ会かいの空くう気きが写うつし出だされていることに気きがつきます。みなさんがふだん何なに気げなく撮とっているスマホの写しゃ真しんも、未み来らいの人ひとから見みれば「二〇二〇年ねん代だいって、こんな時じ代だいだったんだ!」と驚おどろく大だい発はっ見けんになるかもしれません。

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絵え・yasuo-range

村むら上かみ由ゆ鶴づ

写しゃ真しん研けん究きゅう者しゃ、美び術じゅつ評ひょう論ろん家か。写しゃ真しんや現げん代だいアート、人じん権けん課か題だいに関かんする執しっ筆ぴつを行おこなう。

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