音がした。キーンと、まるで自転車のブレーキを急にかけたようなきしんだ音だった。朱里は寝室の窓に駆けていった。事故でもあったのか、と思い、外をのぞいた。しかし見てみると自転車も人も見当たらない。
朱里とお母さんが新しいマンションに引っ越してきて、まだ一週間しかたっていない。部屋はマンションの一階にあって、裏には小さな庭がある。今はまだ手入れされていない芝生しかないけれど、隣の部屋の庭にはいろんなものがある。丸いテーブルと折りたたみ式の椅子。古そうな物干しロープ。そして軒先から、小さな皿のようなものがぶら下がっている。
キーン。
あそこだ。皿の端っこに小鳥が止まっている。顔と翼が黒く、胸は鮮やかなオレンジ色だ。せわしく頭を左右に回し、辺りを確認してから、また小さな体にしては意外と大きな鳴き声を放ち、皿から何かをついばんだ。
「君は何をしゃべっているの?」と朱里はぼんやりと問いかけた。
前に住んでいた部屋には、鳥は来なかった。高層マンションの十五階で殺風景なベランダしかなく、そもそも東京の真ん中だったから辺りでは鳥を見かけなかったのかもしれない。燃えるごみを出す日にマンションの前に集まってくるカラスがせいぜいだった。一度、夕方に川縁を歩いていたらカモメの声が聞こえた気がしたけれど、海から迷い込んできたのかもしれない。
でもこの辺りには森がたくさんあるから、きっと動物もいろいろいるだろう。ほかにどのような鳥が見えるのか。
「朱里、何してるの?」
お母さんのアシュリーが部屋に入ってきた。いつものように英語で話しかけてきて、朱里も同じく英語で答えた。
「鳥を見てるの。」
お母さんは窓に近寄ってきた。
「あ、ほんとだ。かわいい小鳥がいるのね。新しいご近所さん。さあ、早く準備して。」
この部屋に引っ越してきた当日から、お母さんは、隣人へのご挨拶をしないと、と繰り返し言っている。本当は初日にするつもりだったが、どのような日本語を使えばいいか、確認しようとスマートフォンで検索すると、挨拶の際に手土産を渡す習慣があることを知り、やめた。まずはちゃんと手土産を買っておこう、と。
「引っ越しの挨拶は古い文化じゃない?」と朱里はそのときに言った。「最近はやらない人が多いらしいよ。」
「お母さんは古い人間だから、やりたいの。」
「お母さんの国ではそんな習慣はないでしょ?」
「でもこの国ではするでしょ? これからここは私たちのホームだから、お隣さんと仲良くしないと。」
お母さんはカナダで生まれて、大学を卒業してから日本に渡ってきた。朱里は二回しかカナダを訪れたことがないけれど、お母さんのおかげでその国の文化と言葉について詳しかった。日本人のお父さんを持ち、カナダ人のお母さんを持つ朱里には、そのどちらの国も故郷と感じてほしい。それはお母さんの考えだったみたいだ。
お父さんがまだいた頃、朱里の両親はそれぞれの文化を教える作業を分担していた。家の中でお父さんと日本語を話して、お母さんとは英語を話した。クリスマスにお母さんといっしょにクリスマスツリーを飾り、初詣のときにはお父さんといっしょにさい銭箱の前で手を合わせた。二人は違う背景、違う言葉、違う伝統を持っていた。でも朱里にとっては、その全てが自分の家庭の中の文化だった。
お父さんがいなくなった後、お母さんの仕事は倍になった。朱里の英語教育を怠らず、この国の文化と習慣を朱里に教えるようにも努力した。近所への挨拶にこれほどこだわっているのも、そのためなのではないかと朱里は思った。大人のマナーの見本を娘に示したかったのだろう。
インターネットで読んだ情報に従って、お母さんは手土産のハンドタオルと洗剤を用意した。それから近くの百円ショップで手提げ袋とメッセージカードを買ってきた。昨夜、お母さんは食卓に座って、一枚一枚に短いメッセージを注意深く書いていた。
「挨拶をするならメッセージカードは要らなくない?」
「不在かもしれないよ。それとも忙しくて出てきてくれないかもしれない。そうなったらこの袋を置いて帰ってくる。」
お母さんの肩越しに、朱里はメッセージカードの文章を眺めていた。お母さんの字は独特で、朱里が書くのとは明らかに違う。朱里は別に字が上手というわけではなかったけれど、上手とか下手とか、そんな問題ではなかった。朱里が書く字は、小さい頃から練習をさせられた人のものだった。大人になってから日本語を覚えたお母さんの文字は、どことなく雰囲気が違う。
「私が書けばよかったのに。」
「これはお母さんの仕事でしょ? 子どもにお願いするわけにはいかない。」
「でも......。」
小さいとき、お母さんの日本語を何とも思わなかった。発音がお父さんやそのほかの周りにいる大人とはちょっと違うし、ときには間違ったことを言ったが、ずっとその言葉を聞いてきた朱里にとっては、それはお母さんの言葉であって、お母さんと同じようにいとおしかった。
でもある日、お母さんは学校の参観日に来た。人懐っこく、いつも積極的に人に話しかけるお母さんは同級生のお父さんとお母さんや、先生と楽しそうに話していたが、みんなの親たちが帰った後、同級生の男子が、お母さんのしゃべり方を大げさにまねして、彼の友達を笑わせた。それを聞いた朱里はつらかった。お母さんを守りたかった。お母さんは日本語だけではなく英語もできるよ、英語どころか国語でも良い点数が取れない子が何でおもしろがってるの? 心の中で朱里はそうつぶやいたが、何も言わなかった。言う勇気はなかった。
以来、朱里はある不安を追い払うことができなかった。お母さんの言葉は、ほかの人にも笑われているのか。そう思うといたたまれなかった。自分の独特な言葉を気にせず、常に人と会話したがるお母さんのことが急に恥ずかしくなった。静かにすれば笑われる心配はないのに。
お母さんといっしょにマンションの部屋を回って、知らない人一人一人と日本語で話しているところを隣で聞くことを想像すると、胃が少し痛くなった。
「さあ、行こう。」
朱里は諦めて、不安を顔に出さないように注意しつつ、立ち上がった。二人は玄関で靴を履いて部屋のドアを出た。
「本当は左と右の部屋、そして上と下の部屋に行くのが普通だけど、私たちは一階だから三部屋だけだね。」
「ラッキーだね。」
「まずは上の階に行こうか。」
マンションは大きくなかった。三階建てで、各階に五部屋がまっすぐ並んでいる。お母さんの後をついて二階の通路に続く外階段を上った。程なく自分たちの部屋の上の部屋のドアにたどり着き、お母さんはチャイムを押した。ピーンポーン、という音がドア越しに聞こえたが、その後はしんとしていた。
誰も出てこない。
「いないかな。」と朱里は言ってみた。
「そうみたいだね。」お母さんは残念そうに言った。ドアの取っ手に一つの手提げ袋を丁寧にかけた。「やっぱりメッセージカードを用意しておいてよかったね。一階に戻ろっか。」
また階段を下りて、自分たちの部屋の右側にあるドアの前に止まった。お母さんは同じくチャイムを鳴らした。ピーンポーン。しーん。前と同じように、応答がない。
「みんな、出かけてるかしら。」お母さんはまた手提げ袋を取っ手にかけながらそう言った。「もうちょっと遅い時間にすればよかったかも。」
朱里はうなずいたが、内心、喜んでいた。三部屋のうち二部屋は不在。あと一部屋だけだ。今までの幸運がこのまま続けば、挨拶のやりとりを聞かずに済むかもしれない。
自分たちの部屋の前を通って、左側のドアの前に来た。お母さんはチャイムを鳴らした。ピーンポーン。今度も誰も出てこないように、と朱里は頭の中で願った。お母さんはため息をつき、手提げ袋を取っ手にかけ始めた。
するとドアが開いた。部屋の中から、男性の顔が突き出た。
「はい?」
六十代か、それとももっと年上か。年齢は朱里には分からないけれど、お母さんより年上なのは確かだ。髪の毛は白くなっていて、目もとに細かいしわがたくさんあった。お母さんの顔と朱里の顔を交互に見ていて、少し慌てているような様子だった。
お母さんは日本語に切り替えて、話し始めた。
「初めまして。このたびは、あの、隣の一〇三号室に入居しました、あの、サンダーズと申します。これからご迷惑をかけることがあるかもしれませんが、あっ、どうぞよろしくお願いいたします。」
不在と思っていた住人が急に現れて驚いたのか、それともインターネットで読んだ例文を必死に思い出そうとしていたのか、お母さんの日本語はいつもより少しぎこちない。朱里は思わず顔をしかめた。
でも男はそんなことを気にしていない様子だった。むしろお母さんの言葉を聞いて、緊張が和らいだようで、ほほ笑んだ。男が笑うと、目もとのしわがさらに増えて、いっそう深くなった。
「ああ、そうですか。山口です。こちらこそよろしくお願いします。」
お母さんは練習した言葉を言い続け、手提げ袋を両手で渡した。
「つまらないものですが、よろしければ。」
山口さんはお母さんの袋を受け取った。
「どうも。」
山口さんは手に持っていた袋を眺めていた。早く話を終わらせて部屋に戻ろう、と朱里は願っていたけれど、そこで山口さんは予想外なことを言いだした。
「よかったらお茶でも。」
さすがにお母さんも遠慮した。
「いえいえ。」
「どうぞ上がってください。」あたかもお母さんの言葉が聞こえなかったかのように、山口さんはドアを開けたまま部屋の中へ戻っていった。
朱里はお母さんの顔を見て、帰ろう、と声を出さずに口を動かしたけれど、お母さんはそれを無視して、靴を脱ぎ始めた。しかたがなかった。朱里はお母さんの後をついて部屋に入った。
山口さんの部屋は朱里たちが住んでいた部屋と全く同じ間取りだった。でも彼が長年ここに住んでいることが、室内を見ると分かる。全ての壁にアートや写真が飾ってある。リビングに本棚が四台もあって、どれからも本があふれていた。
山口さんがキッチンからお茶を持ってきた。朱里とお母さんはゆったりとしたソファに座り、山口さんは隣の椅子に座った。
「どちらから引っ越してきたんですか。」
「東京です。」とお母さんは返事した。
「はあ。」と山口さんは頭を上下に動かした。「東京ねえ。ここはずいぶん違う雰囲気でしょう。」
「ええ。」お母さんははにかんだ笑顔を見せた。英語で話すときは強く見えるのに、日本語となると、急におとなしくなった。英語で話すときと日本語で話すときを両方見ている朱里にとっては、そのギャップがいつも不思議に感じられた。でも考えてみると、そんなところは山口さんには分からないだろう。
また沈黙が訪れた。お母さんは今言葉に困っているのか、話の続け方を考えているのか、朱里は心配した。
お母さんはいきなり何かを思いついたような顔つきになった。
「あ、バードフィーダー。」
「え?」山口さんは驚いた表情だった。
お母さんは右腕を上げて、部屋の奥の引き戸越しに見える裏庭を指差した。
「バードフィーダーを出しているのは山口さんですね。実は私と娘は、見ていました。」
「ああ。」山口さんは安心したように、静かに笑った。「あれか。この辺りは鳥が多くてね、なかなかおもしろい。この時期はジョウビタキが来てる。」
「ジョウビタキ?」お母さんはその言葉の意味が分からなかった。朱里も初耳だった。
「あそこに小鳥がいるでしょ? あれはジョウビタキというんだ。渡り鳥でね、毎年冬になるとロシアや中国から日本にやってくる。」
「すごいですね。」お母さんは本当に感心したようだった。「あんなに小さいのに。」
「ええ。小鳥にしてはとんでもない距離でしょ。でも毎年、必ずやってくる。」
あたかも自分が話題になっていることに気がついたかのように、ジョウビタキは鳴いた。キーン。山口さんとお母さんは静かに笑った。そして朱里もほほ笑んだ。いつのまにか緊張が少し解けていた。
不思議なことだった。挨拶しにいこう、とお母さんに言われたとき、朱里は部屋から出たくなかった。窓越しに鳥を見続けたかった。人と話す、ましてや人の部屋に入り込むなんて、考えるだけで緊張する。言葉がときどきままならないお母さんだって、きっと緊張したにちがいない。ひょっとすると朱里よりも緊張していたのかもしれない。
山口さんとお母さんの会話が軌道に乗ったらしく、二人は楽しそうに話していた。朱里は楽になって二人の声を聞いていた。でも彼女はときどき、庭で鳴き続けるジョウビタキに目をやった。小鳥なのに、長旅をする。小鳥なのに、声が大きい。大陸にいたときも、同じような鳴き声をしていたのだろうか。それともこうしてこの列島に渡り、ここにいるよ、とどうしても伝えたかったのだろうか。
グレゴリー・ケズナジャット
作家。著書に「開墾地」「トラジェクトリー」「言葉のトランジット」などがある。










