また誰か来た。
奥の部屋にいる私の所まで、おじいちゃんと誰かの笑い声が聞こえてくる。
「エアコン代がもったいない。」
というまことにもってもっともで、エコな理由から夏休みの間、部活の朝練が終わると、違う地区にあるおじいちゃんの家に帰ることになった。
「ねえ、おじいちゃん、『災害時協力井戸の家』に登録すると、ふだんでもこんなに人って来るの?」
お昼、私はおじいちゃんがゆでてくれたそうめんを食べながら聞いた。
「春に水質検査に来た役所の人が、いざというとき手伝ってもらうためにも見学会しませんかって言うもんで、やってみたんだよ。」
おじいちゃんは庭で採れたミョウガをたっぷりつゆに入れながら続けた。
「けっこう家族連れも来て、喜ばれたんだよ。で、それなら、ふだんも開放しようかなって。」
おじいちゃんはちょっとうれしそうに言った。
そもそも私は最近まで裏に井戸があったことさえ知らなかった。だからその周りに人が来てしゃべっていく夏なんて想像もしてなかった。これってまさに井戸端会議ってやつじゃないですか。うわさや悪口を言い合うみたいであまりいいイメージがない。それに、おじいちゃんも疲れるんじゃないか。けど、この状況に強く抗議できない自分もいた。小さい頃にはおばあちゃんもいて、ほとんど毎日のようにこの家に来ていた。お母さんが迎えに来ても帰らないと泣いた記憶もある。でも大きくなるにつれ、習い事や塾も増え足が遠のいた。夏休み前に最後に会ったのはお正月だったかな。もし、おじいちゃんが寂しくて、井戸を開放したのなら、私がそうさせたのかもしれない。
「門が閉まってるときは井戸は開放してないって合図になってる。用事の有無や気分でやってるから、それほどたいへんじゃないんだよ。」
おじいちゃんは、にっこり笑った。
「それと、井戸のある裏庭は、生活スペースからは独立させたし......。」
おじいちゃんがそう言いかけたところで、
「わあ。」
私はネギを取ろうとして、手前の麦茶のコップを倒した。
「ああ、結は綾子に似てそそっかしいなあ。」
「お母さんよりはいいと思うけどね。」
テーブルを拭く作業に追われて、この話は終わりになった。
その日は部活がなく、朝からおじいちゃんの家で、宿題をしていた。すると、
「お願いしまーす。」
元気な声が飛び込んできた。声の主が気になって、ついおじいちゃんといっしょに外に出てしまった。そこには、泥だらけの小さい自転車を引いた男子卓球部二年の先輩がいた。
「おう、今日もよく汚したな。井戸の周りは土で汚さないこと。井戸水といってもだいじに使うこと、最後は......。」
「最後はポンプを手動にしてくみ上げの練習をすること、でしょ、オーケーです。」
先輩はおじいちゃんに向かって気軽に親指を立てた。そこで私に気がついた先輩は、
「あれ、君、確か卓球部の一年......。ここの子なの?」
そう聞いた。私のことを知ってるんだ、という喜びより、汚れた自転車のほうが気になり、
「はい。そうです。あの......。その自転車、何でそんなに泥んこなんですか。」
思わずそう聞いてしまった。
「ああ、これ、マウンテンバイクなんだけど、裏山にコースがあって。朝のうちに走ってきたんだ。」
先輩はバイクの前輪に共用のおけからひしゃくで水をかけながらそう言った。
え、裏山にそんなコースがあるのか。
するとそこに、砂の付いた子ども用の浮き輪を持ってパパさんが、空のベビーカーを引いて若いママさんが来た。ベビーカーの車輪にはガムが付いていた。そして、二人とも水をくみ始める。この井戸水は飲むことはできない。なのでみんな、井戸を囲んで、何かを洗う。アライグマの集会みたいだ。それを見ていたら、私も何か洗わないといけない気になってきた。そうだ、体育館シューズを洗えってお母さんに言われてたんだ。
バケツに井戸水をくむ。ポンプの音は思ったより大きく、水はいきなり蛇口から飛び出す。そして井戸水は冷たい。ちょっと触る分にはいいけど、冷たすぎる。ちらっと周りを見たら、水の中に手を入れて洗っているのは私だけだ。私はアライグマの仲間になったことを一気に後悔した。
「国道沿いにできたカレー屋、もう行きましたか? めっちゃうまかったですよ。」
パパさんが話し始めた。
「あ、まだです。行ってみたいんですけど。」
あれ、ご夫婦じゃないんだ。
「そこのカレーは、チャパティで食べるんです。これがうまい。」
「え、チャパティってなんすか。」
先輩が車輪を回しながら聞いた。
「丸くて厚みがない薄焼きパン、みたいな? インドでは普通に食べるんだよ。」
「ほう、おもしろいな、店は近いのかな?」
おじいちゃんも会話に入る。
「ちょっと遠いんですけど、フーデリ使えるんで大丈夫ですよ。」
「フーデリ?」
「はい、フードデリバリー。お店のものを運んできてくれるんです。」
「出前か?」
「うーん、その店からの出前っていうか、地球規模の出前っていうか。」
先輩が必死に説明してる。
「え! スケールがでかいんだな。」
おじいちゃんは、はははと笑った。
「そうだ、フーデリっていえば、この前アントニーでピザ頼んだら、嫁さんも頼んでて、ここはイタリアかってくらい食べましたよ。今月中は三割引なんでラッキーでしたが。」
え、アントニーもフーデリしてるんだ。しかも今なら三割引⁉
「かぶりましたね。そうだ、かぶるといえば、この前、おいっ子に贈った靴、私の母も同じ物買ってて。色までいっしょ。お嫁さんが気を使ってくれて、右に私の、左に母のをはかせてくれたんです。」
そのお嫁さん、何かすごいな。
「靴っていえば、君さ、その靴のひも、おれと同じのに変えてみない?」
先輩が自分の足をちょっとこちらに出した。
「え?」
「これだとね、足入れたときひもがのびて、いちいち手を使ってはかなくてもよくなるよ。」
「え! すごいですね!」
「かかとふんではいてるみたいだから。」
うわ、面倒くさがりなのがばれてる。
「あ、その靴ひも、星シューズにありましたよ。」
ママさんがベビーカーの車輪を拭きながら教えてくれた。商店街の星シューズですね。
アライグマたちからはどんどん地域密着型の情報が出てくる。次から次への「といえば」大会。みんな、自分の手もとを見ていて、視線を合わせない。この状況がいいのかもしれない。現代版井戸端会議は程よい距離感がポイントだ。思っていたのとちょっと違う。ビバ! 井戸端じゃないか!
「では、失礼します。娘が海で耳に水が入ったってずっと不機嫌なのでミマセ耳鼻科に連れていきます。」
パパさんが立ち上がった。
「あ、ミマセ耳鼻科っていえば第二駐車場、もう車入ってたっすよ。」
先輩は耳鼻科の近くに住んでるのかな。ミマセ先生! 優しかったなあ。
洗い終わるとそれぞれ帰っていく。次の人が来たり、来なかったり。アライグマたちの願いは同じ。いざというときが来ないこと。
夕方、井戸の脇に体育館シューズを取りに行くと、ぬれた土で足が滑ってしまった。
「危ない!」
スコップを洗っていたおじいちゃんが叫んだ。
「結は小さい頃から本当にそそっかしい。ばあさんの言うことを聞いておいてよかった。」
「おばあちゃんの言うことって?」
「井戸だよ。昔から井戸はあったんだが、ちょっとしたことも子どもには危ないからって誰も近づけなかったんだ。」
私は井戸をじっと見た。
「何度か役所から、災害用井戸として復活してほしいと頼まれたんだけど、ばあさんがそそっかしい孫がいるから、彼女が中学生になるまで待ってくれって譲らなかった。だから今回、結が中一になるタイミングで受けたのさ。」
「そうだったんだ。」
おばあちゃんの笑顔が浮かんでくる。
「でも開放は、寂しくて続けてるんでしょ?」
「まさか! ボランティアだよ。ボランティア。え、寂しいって?」
「私が来なくなったから......。」
「それは結がちゃんと成長したってことだ。それに綾子から教わって、結のSNSもときどき見てるし、寂しいわけがない。」
「え、あれって、コジローだけの猫アカだよ。」
「猫でも犬でも何でもいい。結が元気でやってることが分かれば、それでいいんだよ。」
おじいちゃんは洗う手を止めずに言った。
よかった、おじいちゃんは寂しくて井戸を開放してるわけじゃなかった。私はほっとして空を見上げた。夕焼けにぽっかりと丸い雲が浮かんでいる。
「チャパティってあんな感じかな。」
そうつぶやくと、おじいちゃんは、
「明日の昼、フーデリしてみるか、チャパティ。ミョウガと合うかな。」
そう言って顔を上げてにやりと笑った。
土野寧々
2026年、第4回「青いスピン」作品募集 佳作。


